私だと気付いた航河君は、強張らせていた表情を一気に緩め、見たことのあるくしゃっとした笑顔を見せた。
“あぁ、懐かしい──”
その笑顔を見て、思わず自分も顔を綻ばせた。
「千景ちゃん、元気そうだね」
「航河君こそ。もう──何年振りだっけ?」
「んー……。千景ちゃんがバイト辞めて、その後はたまに、食べに来てくれたよね」
「そうだね、だから……」
「……千景ちゃんから、『結婚した』って聞いてからは、会ってないね」
「……うん。六年振り、くらいかな」
「そうかも。結構会ってないな」
「ふふっ。そうね」
何も、変わっていない。そんな言い方は、失礼に当たるだろうか。
学生の頃、まだ、学校に通い、アルバイトをしていた頃の、航河君と。今の航河君は、何ら変わりのない存在に見えた。
それはもしかしたら、私の願望だったのかもしれない。──もう一度、あの時好きだった航河君に会いたかった、私の。
「……あ、ゴメン。案内しなきゃ。新しくプロジェクトに来たんだよね?」
今更ながら、本来の目的を思い出した。そうだ、私は今日から、航河君と同じプロジェクトで働くことになるのだ。航河君が、来る場所を間違えていなければ。恐らく。
そう思ったら、心がむず痒いような、何とも形容しがたい感覚に襲われた。これは、そうだ。季節の変わり目のあの夏の到来を告げる時の感覚と似ている。だからきっと、その時に思い出す【アレ】なのだろう。
“大丈夫。私はもう──”
「……ちゃん? 千景ちゃん?」
「──えっ? あ、ゴメン! ちょっと、ぼーっとしちゃった」
「大丈夫? なんか、そういうとこ相変わらずだね」
「なっ……たまたまです!」
「あ、ゴメン。そんな怒らないで」
思わずムッとした口調で言い返してしまった。それでも、『怒らないで』と言う航河君の顔は笑っていた。いつかじゃれ合うように過ごした、あの時のように。
“私に言わせたら、航河君のそういうとこも、変わってないんだよ”
「案内するよ。と言っても、私も今日からなんだけど」
「同じプロジェクト? すげぇ偶然」
「私は総務だけどね、エンジニアじゃあないよ」
「ふーん。でも、同じ部屋でやるんでしょ?」
「うん。人も随分多くなったし、出張とかも増えて、リーダーの管理が大変になって来たんだって」
「そうなんだ。俺的には、知ってる人いて助かる」
「それは、私も。会ったことの無い人がほとんどだし。名前は知っていてもさ」
「お互いにラッキーだった?」
「そうかもね」
喋りながら、ドアを開けて階段を上る。少しだけ、昔に戻ったような高揚感を覚えながら。
ウチの会社は、どちらかと言えば、いや、言わなくてもブラックだろう。そんなところに来てしまった航河君は、少し不運かもしれない。……いや、かなり。きっと彼もこれからあの沢山の残業と、追いつかなくて仕方なくする休日出勤と、理不尽な要求をするお客さんに、打ちのめされるのだろう。
この業界、プログラマやシステムエンジニアにとっては、ある程度避けられない運命なのかもしれない。そんな心配をせずとも、既に通ってきた道ですっかり慣れっこなのかもしれないが。
「ここ。この部屋が、プロジェクトで使っている部屋だよ」
「有り難う。カード、要るの?」
カードリーダーを指差して、航河君は首を傾げた。
「あ、うん。でも、航河君のはリーダーが持っていると思う。だから、私ので入るよ」
ピッ──。
軽い電子音が鳴る。部屋へと入り、リーダーの村野さんを探す。キョロキョロと見回すと、音に気付いてヒラヒラと手を振る村野さんと目が合った。
「七原さん有り難う」
「いえ、桐谷さんどの席に案内すれば?」
「取り敢えず、七原さんの隣で。俺の前が七原さん。此処2つ、席空いてるでしょ?」
「あ……はい」
「桐谷航河です。宜しくお願いします」
「リーダーの村野です。宜しくね」
軽い挨拶を交わすのを見届け、促されるまま、私達は席に着いた。
“そっか。隣の席なのか……”
ふと航河君を見ると、視線に気付いてこちらを向いた。にっこりと笑うその笑顔に、初めて出会った時のことを思い出した──。