◆あの君◆第1話:【現在】思わぬ再会①

⇒①思い出す時

桜がとうに散り、緑の葉が生い茂る。寒い日もあり、暑い日もある、この五月。
鼻をくすぐる、何とも表現し難いこの匂いと、ふとした時に感じる胸のむず痒さに、私、七原千景はいつも夏の到来を感じるのだ。

 今年もまた、その季節がやってくる。
 窓から入るそよ風と、ザワザワとした木々の音が、昔のその時の記憶を一緒に運んできては、私に【別の意味の胸のむず痒さ】を思い出させながら。

 日差しが強ければうっすらと滲む汗も、あの時よく聞いていつの間にか覚えた歌も、アスファルトの上を走る自転車の音も。生暖かい風が肌に張り付く感覚も、何処かから聞こえる虫の音も。
 全てが、懐かしい。

 そうして私は、今の幸せを噛み締めながら生きていた。

──五月某日 オフィス。

「えっ、異動ですか?」
「あぁ、頼むよ。向こうは出張組が多くてね、リーダーだけじゃあ、管理が追いつかないんだよ」
「……仕方ないですね、分かりました」
「悪いね。まぁ、このビルの三階だし、やる仕事の内容は変わらないからさ」

 随分と中途半端な時期に異動を言い渡された。私は総務で、会社の人間の勤怠管理や旅費精算の管理をしている。やることは変わらないが、場所が変わるらしい。

四月から大きなプロジェクトが発足し、多くの人間が出張を繰り返し、その大きさから人員も続々と投入されていた。気づけば、月の勤務表は百枚、つまり百人分を超え、出張報告書を提出し、旅費を申請する人間は、二桁の後半を突破していた。
いつもは、プロジェクトのリーダーがそれらを取りまとめ、確認作業を行ってから総務へと提出していた。
が。リーダーが多忙となり、一発で『無理』のお達しが来たのであった。

「……気持ちはわかるわ。あんなに沢山、一度に出されても見切れないよね。残業に休日出勤、出張だらけで」

私はリーダーに同情していた。どうしたら、残業時間が三桁を突破し、その上で他人の面倒を見つつ、お客との打ち合わせやレビューという名のバトルを、毎度切り抜けなければならない状況を抜け出せるのか。きっと、リーダーはそんなことばかり今後考えるだろう、と。

三階へと続く階段を昇る。今あのプロジェクトで働いている人達にとって、この階段は、絞首台へ登るような、酷く重い道のりに違いないだろう。

「さて。今日から宜しくお願いしますよ、と」

ピーンポーン──。

 部屋の外に置かれた、呼び出しボタンを押す。暫くして中から、リーダーが出て来た。

「あ、七原さん。今日からだっけ?」
「はい、そうです。村野さん、よろしくお願いします」
「よろしくね、あ、この部屋入れない?」
「えぇ、まだカードを貰っていなくて」
「じゃあ、七原さんの分も入ってたのかな、一枚多いなって。これ、渡しとくね」
「有り難うございます」

 村野さんは、そう言って手に握っていたカードを渡してくれた。

「悪いんだけどさ、一階の会議室に今日から来る人が待ってるんだ。連れて来てくれない?」
「分かりました。お名前は?」
「『桐谷』って、男の人だよ。七原さんと、あんまり歳変わらないくらいだと思う」
「今から行ってきますね」
「頼んだよ。多分、一人で待ってると思うから、すぐ分かるよ」
「はい」

 部屋に入ることもなく、ドアを閉めてまた来た道を戻る。カツンカツンとそう高くもないヒールを鳴らしながら、どんな人だろうか、と、ぼんやり考えながら。

“中途半端な時期に来るんだなぁ。まぁ、私もなんだけど”

 閉められた会議室の前で、立ち止まる。中からは特に何も聞こえない。

 コンコン。

「失礼します」

 ガチャリ、と開けたドアの向こうに、男性が1人。こちらに背を向けて座っていた。

“あぁ、この人か”

「すみません、桐谷さんですか?」
「あ……はい!」
「私、七原とも……」

 男性が立ち上がり振り返ると、私達はお互いにじっと目を合わせながら立ち尽くした。

「……千景、ちゃん?」
「航河、くん……?」

 ──覚えている。この声、この顔。あぁ、彼だ。

どうして、今。──もう、会うことはないと、そう思っていたのに。

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