第105話:【現在】あの時、一番好きだった君に。 (あの時、一番好きだった君に。)

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 「桐谷君、良かったらまた来てよ」
「有り難うございます。また呼んでもらえたら嬉しいです」

 引き継ぎも無事に、航河君がこのプロジェクトを去る時間が来たのだ。

 航河君の勤務表は、私が席を外した隙に机の上に置いてあった。くまなくチェックしたが、間違いは一つもない完璧な仕上がりで、私は特に声をかけることもなく、それをクリアファイルにしまった。

「それじゃあ、お世話になりました」
「来てくれて助かったよ」
「そう言っていただけて何よりです」
「いつでも待ってるからね」
「あはは、有り難うございます。……あ」
「どうした?」
「勤務表のコピー、先に会社に送っておきたいんです。FAX送りたくて……」
「あぁ、そうか。上長の印鑑なしでも先に送るんだったか。おーい、七原さん」
「……はい?」
「もうすぐ帰るだろう? 桐谷君、下まで連れて行ってやって。彼だけじゃ入れなくなったしなぁ」
「……分かりました」

 最後の最後で出番が来てしまった。もう私は幕を引いた筈なのに。

 仕事を終わらせ、航河君と共に階段を降りた。そういえば、初めて会社で顔を合わせた日も、こんな風にFAXの場所まで連れて行ったっけ。

「1人で行けないのは不便だね」
「……セキュリティのせい。誤送信があったみたいで、二重チェックをしなきゃいけなくなったのと、プロパーがいないと送っちゃいけなくなったの」
「……そっか」
「番号を押すのは、航河君がしてね。それをチェックするのは私、と航河君」
「わかった」

 無事にガガガガ……と用紙が引っ張られる音を聞き届け、私達は会社を後にした。

「……千景ちゃんって冷静だね」
「なんで?」
「……なんとなく」
「変なの」

 終わりだ。これで終わりなのだ。航河君のいた日々は。明日からはまた、いなかった日々に戻る。

 寂しくはない。悲しくもない。私には、ひろ君と夏乃がいる。──直人ともまた連絡を取らなくなってしまうかもしれないが、たまに思い出すくらいがちょうどいいのかもしれない。

「俺、千景ちゃんにまた会えて良かった」
「何感傷に浸ってるのよ」
「いいじゃんこれくらい。俺にとって、千景ちゃんはそれだけ特別だったんだから」
「あー……わた……いや、何でもない」
「気になるなぁ」

 うっかり、私もそうだったと言ってしまうところだった。過去形ではあるが、そう簡単に口にしてはいけないと思い、言いかけてやめた。

「……ちゃんと前を見るよ」
「航河君モテるから大丈夫!」
「……あっさり言ってくれるねぇ」

 実際そうじゃあないか。きっとすぐ、仲が良くて、一緒にいて楽しい人が出来ると思うんだ。

「あーもう、絶対超美人のお金持ちの性格いい子捕まえて結婚してやる!」
「あんまり高望みすると相手にされないよ?」
「これくらい言ってもいいでしょ。めっちゃ豪華な結婚式挙げてやるんだから」
「なんか、玉の輿に乗るんだ! って躍起になってる女の子みたい」
「何とでも言ってくれ!」
「あはは、招待状が届くの楽しみにしてる」
「無駄に装飾された招待状送りつけるわ!」

“あぁ──航河君は航河君だなぁ──”

 『お疲れ様』と、そう言って笑顔で手を振った。『さようなら』と笑うその笑顔は、最後まであの航河君だった。

 私の好きだった人が、今の今まで目の前にいた。サヨナラした時、不思議な感覚に陥った。今まで感じたのことのない、不思議な。

 同じ職場で働いていたことも、kiccaでやり取りをしていたのも、一緒に帰ったのも、昔話をしたのも。まるで全部夢だったかのように。私の心の中をぐるぐると今、駆け回っている。

 あの時、一番好きだった君に、また会うことが出来た。そして、別れを言うことも。

 再会してからのことも、思い出した過去のことも、一つ一つが惜しむように流れてくる。

 ──また、いつか会う時が来たら、デジャヴを感じるのかもしれない。いつでも会おうと思えば会える。でも私は、会わないことを選ぶだろう。

「結婚式……か」

 私は空を見上げた。独特の匂いに、胸がむず痒くなる。いつも、夏に感じたあの匂いと空気。それがまた、顔を出していたのだ。

 私はぼんやりと、この感覚がこれから減ってくのだろう、そう感じていた。

 もし、その無駄に装飾された招待状が届いたら、私はどちらに丸をつけようか。

 ──そうだ。
 私はきっと──。