第103話:【現在】最後に伝えたかった① (あの時、一番好きだった君に。)

スポンサーリンク

 悪いことはしていないのに、逃げるように会社を後にする日が続く。同じ時間に帰るのは気まずい。
 あぁ、こんな思いをすることは、もうないと思っていたのに。油断していたというか、頭になかった。

 航河君がひろ君に直談判し、そして断られたあの日から、私は航河君と会話をしていなかった。恐らく、会話する可能性があるのは最終日、明日だ。
 勤務表を提出するから、その時。もう、それくらいしか話す時はない。

 話せなくとも、私は別に構わない。

 ひろ君はというと、普通に夏乃を迎えに行って、普通に夜ご飯を作り、普通にお風呂に入って普通に寝た。特にリアクションもなく、忘れたように過ごしている。敢えて私も蒸し返したりしない。

“明日で終わりか──”

 すぐだった。航河君がプロジェクトに来てから、去って行くまで。同じ時にプロジェクトに配属され、明日まで一緒なんて、どんな奇跡、どんな神様の悪戯だったのだろう。

 昔々、誰よりも好きだった男の子に再会する確率。

 感傷に浸ったとて、私には思い残すことも、言いたいことも何もない。ただ、彼がこの部屋を去る時に『お疲れ様でした』そう行って笑顔で手を振るくらいだ。

「千景さん、勤務表は初日に異動先で出した方が良いですか……?」
「どっちでも良いよ。勤怠はこっちのプロジェクトでついているし。面倒だったら、明日出してくれれば」
「じゃあ、お願いします。しっかり確認してもらった方がいいかな、って」
「今月出張もあったもんねぇ。日帰りだけど、精算もあるしね」
「初めてだったので、緊張しました。でも、良い経験ですね。お客さんと直接話すことが出来て、楽しかったです」

 綾ちゃんにとって、このプロジェクトはこれからの糧になっただろうか。可愛い後輩には、ずっとずっと成長していってほしい。

「七原さん、今日カラオケ行かない?」
「村野さん暇なんですか?」
「暇じゃないけど。ストレス溜まって仕方がないんだもん」
「急には無理です。また今度ですね」
「えー。たまには良いじゃん」
「娘の迎えとか、食事の準備もあるんで。無理です」
「融通きかないなぁ」
「私の代わりに、娘の迎えとご飯、あと洗濯とかもお願い出来ます?」
「……無理ですごめんなさい」

 今日も変わらない日常が過ぎていく。あと少し、あと少しで航河君のいる変わらない日常が終わるのだ。

 キーンコーンカーンコーン──

「あ、定時。帰りますね。お疲れ様でした!」
「相変わらず早いなぁ。お疲れ」

 定時ダッシュが基本だ。出来るだけ早く帰りたいのは、いつになっても変わらない。

“今日の夜ご飯は……何にしよう?”

「千景ちゃん!」

 献立を考えながら階段を降りていると、急に呼び止められた。──航河君か。

「何?」
「駅まで。一緒に行こう」
「……分かった」

 駅までなら構わない。10分もかからないのだから。

「明日で終わりだから」
「うん、知ってる」
「何か言い残したことは?」
「何そのラスボスに今から倒される時の台詞みたいなの」
「……ダメ?」
「取り敢えずはない、そう言っておこうかしら」
「……冷たくなったよねぇ」
「気のせいじゃない? 私はもともとこんな感じだったと思うけど」
「航河さん寂しい」
「君が変わらなさすぎるんじゃない?」
「これでもちゃんと、成長してるんですよ?」
「……ほんとかなぁ」
「やっぱり酷い」

 しょぼんとした顔をしている。昔だったら取り繕ったかもしれないが、今の私はもうそれもしない。

「俺はあるよ」
「何が?」
「言い残したこと」
「……うん?」

 航河君が立ち止まったようで、隣を歩いていた筈の私の視界から消えた。私も立ち止まり、後ろを振り返る。

「……あー。言い忘れてたことあった」
「何!?」
「明日勤務表、絶対間違えないでね。印鑑無いし」
「……なんだよそれ」

 明らかに落胆した顔を航河君は見せた。

 私は別に、航河君の言い残したことを、聞きたいとは思わないんだ。