第72話:【回想】不穏な空気② (あの時、一番好きだった君に。)

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ザァザァと、雨の音が響く。

私はあまり、雨の中を歩くのが得意ではない。というのも、すぐにズボンの裾が水浸しになるように、地面の雨水を跳ね上げて歩いてしまうからだ。
だから、いつも雨の日かレインブーツを履いているし、傘も女性が使うには大きいサイズにしている。それが今回、功を奏した。
航河君が入っても、傘が大きいため濡れる部分が少なくて済むのだ。

「傘は俺持つよ」
「うん。有り難う」
「だいぶ暖かくなったよね」
「そうだね。でも、明け方と夜はまだ肌寒いや」
「もうすぐ夏になるよ」
「不思議だよね、ついこの間までダウン着てたし、寝る時も毛布に包まって寝てたのに」
「早いよね。すぐに夏が来て、また冬が来る」
「……春と秋、何処かに行っちゃったよね」
「四季じゃなくて二季になっちゃうよね」
「ほんとにそう思う」

空は曇り、今日は星も出ていない。月も隠れてみることが出来ず、通りを走る車のライトと家から漏れる明かりが照らす道を歩いた。

同じ傘に入っているから、いつもよりも距離が近い。いや、いつも近いと言えば近いが、今日は歩く時に腕がぶつかる回数が多かった。でもお互い、『こんなもんか』と相変わらず気にはしなかった。

「……あのさ、千景ちゃん」
「ん? 何?」
「今日は心配かけてごめんね」
「いや、全然構わないよ」
「……ありがと」

心なしか、『ありがと』の言葉が弱弱しく聞こえた。

「えっと」
「どうしたのよ」
「……実はさ」
「うん」
「……れた」
「え? もう一回。車と雨の音で聞こえなかった」
「……別れた」
「……は? え? 何が?」
「だから別れたの」
「え、だから誰が。誰と」
「俺が。美織ちゃんと」
「……はあ? 何その冗談」
「嘘じゃないよ。本当に別れたの」
「ちょっと、言っている意味が分からない」
「言ったまんまの意味しかないよ」

嘘だと思った。信じられなかった。航河君が、美織さんと別れるなんて。有り得ないと思っていたから。

「……何か言ってよ千景ちゃん」
「……何も言えないよ……」

私はかける言葉を探していた。別れたと急に報告されても、何も準備など出来てはいない。気の利いた言葉がすんなりと口から吐けるほど、或いは明るく振舞うための軽口が叩けるほど、冷静な自分ではなかったし、何よりそれだけ驚いていた。

“嘘だよ、航河君が美織さんと別れるなんて”

エイプリルフールなんてとっくに終わっているのに、嘘を吐いてなにも良いことはない。ましてやこんな嘘。世の中、吐いて良い嘘と悪い嘘があるだろうに。──これは、悪い嘘に分類される筈だ。

「……えっと。エイプリルフールは終わってるよね?」
「勿論。終わってる」
「嘘、じゃないの?」
「俺がこんな嘘吐くと思う?」
「……思わない」
「これでも凄い平常心頑張ってるんだけど」
「……ごめん」
「ちょっとぐらい労ってくれても良いんじゃない?」
「今日は、今日はお疲れ様。……よく、頑張ったね」
「でしょ? あー、俺もっと泣くかと思ってたけど。呆気無いんだね、別れるって」

そう話す航河君の横顔は、暗くてよく見えなかった。

「そんな訳で、傷心なんですよ。」
「知ってる」
「カラオケ行きません?」
「今から? 好きだねぇ、カラオケ」
「他に発散出来る物を知らないんだもん」
「まぁ、今日は好きなだけお付き合いしますよ」
「ホントに良いの?」
「……いつもと変わらない気もするけどね」
「じゃあオールで」
「元気だな」
「カラ元気の可能性ね」

家ではなく、カラオケへと足を向ける。何度も通った道なのに、いつもと違って見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

カラオケへ向かう間も、雨は降り続けていた。止むどころか、その雨脚は強くなる一方で。

私は、この雨がきっと航河君の代わりに空が泣いたのだろうと思った。だから暫くは、この雨は止まない、とも。