第71話:【回想】不穏な空気① (あの時、一番好きだった君に。)

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 春になり、大学も3年から4年に無事上がることが出来たある日、いつもは時間よりも随分と早く来る航河君が、今日は1時間遅れてバイトに来た。不思議に思っていたが、特に店長も理由を聞いていないらしい。
 『いつも真面目に来てるから、まぁたまに遅刻しても目を瞑ろう。今日暇っぽいし?』だそうだ。

「おはようございます」
「おはよう航河君」
「……はよ」

 何処か素っ気ない気がする。別に、喧嘩もしていないのに。一体どうしたというのだろうか。

「航河君、疲れた顔してるよ? 大丈夫?」
「……え? そう? 特には……」
「……まぁ、大丈夫ならいいけど」
「うん」

“うーん。大丈夫に見えない!”

 気になっていた。しかし、本人はあまり喋る気がないらしい。無理に聞いて、嫌な思いもさせたくないし、何か悩んでいることだったら、思い出させたくない気もする。

“本人が言ってくるまで触れないでおくか……”

 接客はいつも通りだ。でも、ふとした時に、悲しそうな顔をする。何かを思いつめているような。それは今までに一度も、見たことのない表情だった。

 おそらく、何か嫌なことがあったのだろう。例えば、大学の講義でやたらレポートが出たとか、友人と喧嘩してしまったとか。そんな時は、つい顔にも出てしまうだろう。……少なくとも私はそうだ。

 時々キッチンで、ぼーっとする素振りも見せながら仕事をする航河君を、ホールのメンバーだけでなくキッチンも含め、皆が心配していた。それもそうだろう。普段あれだけ元気で、沢山お喋りをしているのだから。今の航河君を見たら、航河君を知っている人は誰だって心配すると思う。

「航河? どしたの?」
「俺はいつもどーりだよ?」
「いや、そんなことないでしょ。広絵でも分かるよ」
「えー。気のせいだって」
「いいなら良いんだけどさぁ。顔に出てるよ?」
「えっ。そう?」
「うん。んで、その航河の顔見て、千景が暗い顔してる」
「えええ? 私そんな顔してる!?」

 私は思わず、両手の指先て頬を摘まんだ。

「してるよ? 心配でしょうがないんでしょ?」
「……まぁ」
「ご案内お願いしまーす! 二組です!」
「あ、お客さんだ。行こ、千景」
「う、うん」

 店長に呼ばれた。広絵に腕を引かれ、店の入り口へと向かう。チラリ、と振り向いたが、航河君はもう後ろを向いていて、その顔は見えなかった。

“航河君……”

 それでも、お客さんの前では笑顔を崩さない航河君は素敵だった。接客中は、ニコニコと笑いながら、お客さんと話もしている。怖い顔にはなっていない。悲しい顔にも。

「今日はお客さん捌けるの早かったね」
「ね。店長に聞いてみる? もう閉めていいか。ラストオーダー終わりだし」
「広絵聞いてくるよ。先テーブル拭いてて」
「了解」

 パタパタと靴の音を鳴らしながら、キッチンへと入って行った。

 ──ザアァァアアアァァアア──

「あ。雨だ」

 窓ガラスに大粒の雨がぶつかる。そういえば、天気予報で今日は午後から雨予報だった。傘も持ってきたし、靴もレインブーツ。なかなか降らないなと思っていたが、遅くになって降ってきた。
 しかも、結構な本降り具合である。天気予報通りに傘を持ってきて良かった、と、ホッと胸を撫で下ろした。

「あー! やばい! 広絵傘無い!」
「直人に迎えに来てもらえば?」
「あ。そっか。今日この後会うわ。家集合だったけど、迎えに来てもらお」
「良いねぇ」
「千景は大丈夫? 傘ある?」
「うん、あるから大丈夫」

 雨の心配をすることなく、黙々と締めの作業を行う。元々今日はお客さんが少なかったこともあり、テーブルの回転はそう多くなかった。普段よりも早くに片付けてそのままになっていたテーブルも幾つかあり、いつもに比べて掃除も楽だった。

「直人待ってるから、広絵先行くね。お疲れ!」
「お疲れ様!」

 店の前で車を止めて待つ直人の元に、広絵は走って行った。

“こういう時車って便利よねぇ”

「千景ちゃん」
「あ。航河君お疲れ」
「お疲れ。俺、傘無い」
「えっ!?」
「入れて」
「良いけど……雨凄いから、濡れるよ?」
「うん。千景ちゃん風邪ひいちゃう?」
「どうだろ。分かんないけど、傘半分あればずぶ濡れにはならないんじゃない?」
「ごめんね」
「構わないよ」

 私達は、2人で一つの傘を差し、帰ることにした。