第70話:【現在】回顧 (あの時、一番好きだった君に。)

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 「……ただいま」
「お帰り千景。夏乃寝たよ」
「うん、ありがと。ゴメンね、忙しい時期に」
「大丈夫だよ。いつも千景にやってもらってることだし。ご飯は?要らないって言ってたから、用意してないけど。作り置きのおかずなら残ってるよ?」
「ううん、今日はお腹いっぱいだから。カラオケのご飯も、美味しいよね」
「そう? なら良いんだけど。……どうしたの? 具合悪い?」
「なんでもない、疲れたかな。お風呂入ってくるね」
「いってらっしゃい」

 何も食べる気が起きなかった。お腹は空いている筈なのに、食べたいと思えない。重たい身体をゆっくり動かして、お風呂場へと向かう。服を脱ぎ、シャワーで汗を流して、髪を洗う。顔と身体も。

“この気持ちの意味が分からない……”

 綾ちゃんと別れてから、頭に靄がかかったようにスッキリとしない。

「……疲れた」

 湯船に身を落とす。適温に保たれたお湯が、私の身体を覆ってゆく。体操座りで身体を屈め、口元をお湯へと隠した。プクプクと水面に泡を作り、目を瞑る。

 言えなかった。本当は、言わなければならなかったのに。遅かったと思った。綾ちゃんはもう、航河君を好きになっていたんだ。

“約束したのに。直人と。摩央と”

 『私みたいな思いはさせない』と、そう約束した。なのに。それなのに私は言えなかったのだ。言わなければいけなかったのに。

「意気地なし……私のバカ……」

 私は綾ちゃんの気持ちがよく分かる。航河君を好きになって、毎日が楽しくて、連絡や喋ることに一喜一憂して、待つこともまたその一部で。
 不安に思いながら、でもこの楽しい時間を失いたくない。その思いが膨らんでいくのを感じる日々。

「……なんで? なんで、綾ちゃんなの……?」

 私は航河君の彼女でも奥さんでも何でもない。航河君のすることに、口出しをすることは出来ない。誰に優しくしたって、仲良くしたって、それは航河君の自由だ。

 確かに直人にも言われた。摩央にも言われた。不用意な優しさは、時として誰かを傷付ける。身をもってわかっていた筈なのに。

 もっと前から注意すれば良かったのか。『好きでもないのに優しくするな』と。いや、でも、それは違う。あの子の優しさに他意はない。『もしかしたら好意を持ってくれているのでは』と、勘違いしてハマっていくのは、私達の方なのだ。
 勘違いさせるような行動をとるのは良くない。それもまた然り。全部正しい。間違ってなんかない。

 好きだと言われたら、言えなかった。『あの子は誰にでも優しくて、そこに男女の思いはない』と。
 ましてや、『航河君に好きな人がいる』上に、それが【私】だなんて。

「どうして今更……。何で私なの? 何でよ、何で……私……」

 言葉に詰まり、唇が震えた。換気扇の音がお風呂場に響いて、湯船の水の音も反響する。

 私があの頃好きだったように、綾ちゃんは航河君のことが今好きで。綾ちゃんは私の可愛い後輩で。慕ってくれて、笑顔が可愛くて、妹のような存在だ。

 守りたかったなんて烏滸がましいかもしれないが、そこまでいかなくとも、『好きな人がいるみたいだよ』と、もっとずっと前に伝えることが出来たら。綾ちゃんが私に相談することも、私が今こんな気持ちになることも無かったのだろうか。

 ──例え、今日言ったとしても、もう遅かったのかもしれない。綾ちゃんはきっと、もっと前から私の歩いた道を上から辿るようにして、同じようにその報われないゴールへと向かっているのだ。

「やだ……やだよ……」

 濡れた顔が、自分の涙でまた濡れた。手で覆うか、涙はどんどん溢れていく。

「告白しなければ良かった……。好きにならなければ良かった……。私は──私は──」

 中途半端な優しい嘘と、胸を抉るような真実は、どちらが望まれるものなのだろう。
 あの笑顔は、どの言葉なら真実でも守ることが出来たのだろう。私が正直に言えば良かったのか。それとも、オブラートに包んで優しく言えば。……いや、どの道を選んでも、綾ちゃんは傷つき、深く沈んでいったかもしれない。

「……違う、好きじゃない……私じゃない、私じゃないんだ……」

 私は真実ではなく嘘をとった。言わないという嘘を。その嘘で【今】の綾ちゃんの笑顔を守ったつもりでいた。……一体、今日何回嘘を吐いただろうか。でもそれは、綾ちゃんを守るためではなく、自分を守るための嘘だったのかもしれない。