第47話:【現在】遠退いた距離① (あの時、一番好きだった君に。)

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 今日は、忘年会とは別の納会が会社で行われた。つまり、仕事納めである。今年も1年があっという間だった。夏乃が生まれてから、早い早いと思っていたが、今年は特に。
 納会は、社内の人間のみで家族の参加はない。だが、今うちの会社で仕事をしている別会社の人間は参加可能だ。お寿司やピザの軽食と、ジュースだけでなくお酒も振舞われる。忘年会の時より規模は小さいが、景品の当たるくじ引きも行われるのだ。

「あー、しまった。カーディガンに醤油こぼしちゃった……」

 何ともショックだ。お気に入りのカーディガンに、醤油をこぼしてしまった。しかも、色が薄紫なだけに、黒っぽい色が目立つ。

「うげぇ。これ落ちないよね、どうしよう……」

 兎に角カーディガンを脱ごうと、納会を抜ける。恐らくもうこのカーディガンは着られないだろう。とても悲しい。下には染みていなかったことが、不幸中の幸いだ。

「はぁ。取り敢えず脱いで、しまっておくか」

 ピッ──

「あ……」
「あれ? ……お疲れ様。納会は?」
「ちょっと、カーディガン置きに来た」

 部屋には航河君だけだった。皆納会に参加していたのだ。
 少しだけ、気まずい空気が流れる。沈黙に耐えかねてはいたが、何と話しかけたらいいのかが分からなかった。

「ねぇ、千景ちゃん」
「……なに?」
「ずっと、聞きたかったことがあるんだけど」
「うん」

 航河君が、キーボードを打つ手を止めた。

「千景ちゃんは、俺に振られて良かったと思ってる?」
「え? 何急に」
「いいから、答えて」
「……そうだね。良かったと思ってるよ。だって、それがあったから、私はひろ君と結婚して、夏乃を生むことも出来たんだから」
「俺じゃなくても、良かった?」
「航河君は、私を付き合う相手として見ていなかったでしょ? それに、私がひろ君と結婚した時、航河君はただの友達だった。だから、その質問はおかしいよ」
「……」
「聞きたいことって、それだけ?」
「……俺のこと、どれだけ好きだった……?」
「今聞くの? それ。やだなぁ」

 航河君は、俯いていた。

「はぁ……昔はね。昔は、大好きだったよ。美織さんには悪いと思ったけど、2人で出かけるのも一緒に帰るのも、凄く楽しかったし。周りからカップルみたいって言われて、距離も近くて。この時間がずっと続けばいいのになー、なんて思ってた」

“もう、私の中では終わったことだよ。航河君も、そうでしょう?”

「告白したこと、後悔してる?」
「……振られた時はめちゃめちゃ後悔した! ……だって、もう元には戻れないと思ったから。でも、今はもう後悔してないよ。ちゃんと、その後に好きだと思える人に出会えたから。初めてだったよ。告白したのも、告白して振られたのも。後にも先にも、航河君だけ。なんなら良い思い出だよ、もう」

 ──なんて、嘘。
 正直、当時のことを思い出すと、今でも泣きそうになる時がある。特別だと勘違いしていた、あの頃の自分が憐れで可哀想で。でも、それは教えてあげない。
 段ボールにしまってあった、捨てられなかった壊れたクマのキーホルダーが出てきたことも内緒だ。勿論、振られた後毎日独りで泣いたことも、告白する前、葛藤や仲の良さ故に泣いたことも。

「……以上?」
「最後にもう一つ」
「ありゃ、まだあるの?」
「もし、もし今俺が」
『あははっ、お酒飲み過ぎですよー』
『ほんと、真っ赤ですよね』

 誰かが来る。遠くから声が聞こえた。

「あっ、納会戻らなきゃ。行くね、私。航河君は行かなくていいの?」
「……俺はいい。仕事してる」
「そっか」

 カーディガンを畳んで持っていた買い物袋に入れる。そのまま鞄にしまい、部屋を後にした。

「……俺なにしてんだ、ほんと」

“何だろう。航河君、何を言おうとしたんだろ……”

 私が去ったあと、航河君がその目に涙を浮かべたことを、私は知らなかった。